​花名

1.

 

 花名が死んだ。

 別れて一年が経とうとしていた。

 ただならぬ気配に気づいた妻が、気遣わしげに受話器を落としかけた僕を見た。

​「かなが、」

 そっと僕に寄り添った妻に僕はどんな言葉を選んだらいいのかわからない。仮にも彼女に文学を教える身分であったはずなのに。

「花名が、…睡眠薬を、飲んで。」

 飲んで、と僕はもう一度繰り返してその先を言えなかった。僕が、僕は。僕が。それでも妻は敏感に悟って絶句した。僕は受話器を置いた。僕が。立っているのがやっとだった。僕が。無数に散り散りになって必死で四方八方へ、ミミズのように醜く、のろく、無様に僕の脳内から逃げ出そうとした思考が、逃げ切れずに一つの形になろうとしている。呼吸が浅く不規則になる。僕が、口をついて出た、僕が、それよりも先に妻が叫んだ。

「私が殺したんだわ。」

 ――違う。

 唇は動いたが、声が出なかった。私が殺したんだわ。妻は何度もそう繰り返してから糸が切れたように崩れ込んだ。それを支えようとして結局僕も膝をついて、床の上にただ彼女と一緒くたの塊になった。妻は震える両手で顔を覆い、狂ったように鳴き声をあげた。私が殺したんだわ。

「違うよ。」

 今度は声が出た。そうじゃない。花名は。

​ 妻は赤ん坊のようにしゃくりあげながら僕にしがみつき、春の夜に泣き続けた。

 

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