3.
すべてが彼のペースだった。気づけば、私の毎日は彼に彩られていた。
彼は私でも知っているような有名な大学の文学部で非常勤講師をしながら、小説を書いているのだと話した。
「でも僕にとってはどっちも本業なんだ。大学も小説も、楽しい。」
小説が売れるようになっても講師は続けていきたいんだ。その可能性はあんまりないけど。そう笑った。
多くの書店員と同じように、私も売れるような本は入荷してきた時点でなんとなく判別できる。偶然にも私の手で彼の小説を私の手で書棚に並べたことがあった。そしてその淡い色調の表紙と、それに合った題名に惹かれて、その一冊を購入した。売れないだろうとは思ったけれど、私は好きだったから。そして、柔らかい文体で、全てを肯定しようとする優しさに溢れた内容をよく覚えていた。彼はそのことをとても無邪気に喜んだ。
「僕は形容し難い絶望を書くことも、大どんでん返しで人の度肝を抜くような話を書くこともできないし、」
珍しく少し寂しそうにそんなことを言ったことがあった。僕は勿論、自分の小説で誰かを救えるなんて思っていない。だけど、すべての人の存在を肯定したいんだ。僕の小説を読んで、わずかにでも安堵してくれる人がもしいたら、そんなに嬉しいことはない。それがもし、世界でたった一人だとしても。
私はもしかしたら、そのたった一人の人間かもしれなかった。
彼の数少ない小説を全部購入して、残らず読んだ。
それを伝えようと、いつものように私が仕事を終える時間、書店の前のガードレールに座っている彼に、自動ドアが開くなり駆け寄った。あのね、と言ったところで彼の右手が私の髪に触れ、そのまま首の後ろを引き寄せられて、一瞬のうちにキスをされた。
「あんまり嬉しそうで、可愛かったから。」
すぐに唇を離して、目を白黒させている私にそう言ってはにかんだ。そしていつものように立ち上がり、首をかしげた。
「うん、何?」
ああ、この人のことを好きだと思った。
彼はそんなのよりもうずっと前に、桜の木の下で立ち尽くす私を見てしまった時から好きだったと言った。不謹慎だけど、と笑って。なんて綺麗に泣くんだろうと思ったんだ。
「反対側の歩道からずっと見てたよ。あまりにも悲しくて詩的な光景で、足が動かなくなった。桜吹雪に囲まれて、風がやんだらそのまま消えていくんじゃないかと思った。」
「私も。」
言いながら何故か涙が零れた。私は驚くほど幸せで、あの日から生きてきて幸せを感じられる自分にも驚いていた。
「あの時、私はこのまま消えればいいと思った。」
彼は微笑んで、ゆっくりと私の涙をぬぐった。そうして私は彼に抱かれた。
彼は私を守ると誓った。誰よりも愛して、守るよ。
私たちは結婚した。