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​桜風

 君の涙に恋をした。

 彼は言った。不謹慎だけど、と笑って。

​ なんて綺麗に泣くんだろうと思ったんだ。

1.

「どうして…?」

 私は呆然と呟いて足を止めた。空は透き通るようで、薄い桜の花びらがくっきりと映えていた。

「もうどうにもならないだろう?

 私にはその意味がわからなかった。それでも、このごろは私の隣で彼はあまり笑わなくなっていたことを思い出していた。

「私がいけなかった?」

「そういうんじゃない。」

 彼は微かに笑みを浮かべて、少し憐れむように私を見つめた。

「終わりが来ただけだよ。」

 その証だとでも言いたげに、向かい合う私たちの間に、ひらりと花びらが一枚落ちて横たわった。何も言わずに私たちはそれを見届けた。たぶん、私たちはとても久しぶりに同じものを見ていた。

「それじゃ。」

 瞳を私に戻して、彼ははっきりとそう言った。私は彼を見ることができず、その花びらから目を離さずにいた。

 涙がこぼれて頬を伝った。

「元気で。」

 身を翻す衣擦れの音がした。

 風が通った。

「待って…」

 かすれた私の声は桜吹雪にさらわれた。その向こうに遠ざかる後姿が、私の見た彼の最後だった。そうして恋人は去った。

 私はただそこに立ち尽くして、風がやんで桜がすべて舞い降りても、歩き出すことができずにいた。

 何かの間違いだとも、夢だとも思わなかった。けれど私はこのまま消えるのだと思った。きっとこの涙が枯れるころ、次の風が吹いて、桜とともにさらわれ舞って、消えるのだ。

​ 花びらのように。

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