3.
――どんなはなし?
「どんなって、難しいな。しいて言うなら君みたいな…」「私みたい? 私の話?」「君の話じゃなくて、君みたいな話。なんていうんだろう、夢みたいな…僕がよくするだろ。君を見つけた日の話。」「ああ、私が恋人に振られた日。駅前の桜並木でね。」
花名は心得ていたように笑う。僕がこの話をするのは慣れっこだったから。けれどその後、花名に本当に出逢うまでの話を僕がしたのはその時が初めてだったかもしれない。
「そう。それから二週間くらい、あの日本当に僕はあの人を見たんだろうか、幻だったんじゃないか、それとも白昼夢だったのかってよく思った。本当に夢にも見たし。」
「夢に? 眠っている時に?」
意外そうに両目を丸くすると、いつも凪いでいるような花名の顔も、心なしかあどけなくなった。
「そうだよ。実際夢めいた光景だったし…不思議な感覚だったんだ。花名にとってはつらい瞬間だったんだろうけど、僕には脆くて、儚くて、ただただ綺麗だった。もしかして僕はそういうものを求めていたのかもしれない、見たかったシーンを見ただけなんじゃないかって思ったりした。それから寝ても覚めても想像するんだ。あの人はどんな人なんだろう、今も泣いているのか、桜の風に溶けてしまっていないか、どんな声で話して、笑うとどんなふうなんだろう、たとえば僕の名前をどんなふうに呼ぶんだろう、僕が呼び止めたらどんな顔で振り返るだろう、…そんなことばっかりさ、知らない人を。でもそれは全部本屋でちゃんと出逢う前のことだよ。」
つまり? 花名は首を傾げる。
「つまり、それは全部、花名そのものじゃないんだ。僕のあの二週間の中にしかない夢みたいなものでさ。生身の君にはこうして触れられるし、想像通りだったところもあれば予想しなかったところもある。人ってそういうものだろ? だけど、僕には君に出逢うまでの間だけに存在した不確かな君がいるんだってこと。」
「不確か…」
花名は不思議そうに僕の言葉尻を反芻する。想像とはなんと朧げなものだったかを思い知る、僕の胸を衝く、あの無垢さ。
帰らなければ。
そう思った時、薄明りで浮かび上がる駅前の設備時計の針は既に日付を超えて回っていた。僕はいつの間にかそれを遠くに眺めながら、無人の歩道で、とうになくなった書店の前のガードレールに腰かけていた。ここで幾度となく花名の仕事が終わるのを待っていたものだった。ああ、帰らなければ。妻が待っている。夜露で空気が肌に重かった。
今になるまで自分がどうしていたのか、どこをどう歩いてここへ辿り着いたのか、何も覚えていなかった。僕はただ記憶の中を歩いていた。隣には花名がいて、あの微笑みを浮かべて僕の瞳を見上げて覗き込んでは、真実を見た。時には僕を待っていて、やわらかな風にさらりとした長い髪を完璧な曲線を描いて、僕を振り返った。時に眩しい陽射しに目を細め眉はかすかに寄せるが、そんな表情も疑いなく美しい。そしてほっそりとしなやかな腕を僕の腕に絡ませるのだ。
開けたドアから僕が外の夜を連れて流し込んでしまったのかと思うくらい、部屋の中は真っ暗闇だった。こんな夜更けに妻はどこへ行ったのだろう、そうぼんやり思いながら手さぐりで電気のスイッチを押した。まっすぐに進み、玄関から及んでくる明かりを手掛かりに、また電気を点ける。
妻は居た。こちらに背を向けて床にへたり込んでいた。朝からずっとこのままでいたのだろうか。僕はその背に、昼過ぎには戻ると言って出て行ったのだった。真夜中になってしまったことを詫びなければいけない。僕は妻との日常に戻るのだ。
やがて妻はゆっくりと振り返った。そして虚ろなまなざしが僕に定まると、不意ににっこりと笑った。涙の筋が頬に浮かんで、唇が渇ききっていた。それでも言った。
僕が恋した向日葵のような笑顔で。
「おかえりなさい。」