3.

 彼女は毎日ここへ来てここへ座って、この本を読んでいるのだと言った。僕に微笑みかけて、変わってないのね、とも。

「そっちこそ。

 僕は思わず、あの頃だってそんなふう言ったことがないほど砕けた調子で言ってしまった。彼女の中では時間など存在しないかのようだった。

「昔のままで驚いたよ。」

 しかし彼女は白い頬に睫毛の濃い影を落として口元を控えめに緩めた。僕には想像できるはずもなかったけれど、彼女だって長い歳月を生きていたのだろう。そう思わせる微笑みだった。

「いつ戻ってきたの?」

「一か月くらい前かな。」

「そんな前? 全然知らなかった。」

「誰にも知らせなかったから。」

「そうなの?」

 僕に友達がいなかったことなんて彼女は知らない。けれど彼女も大概だった。携帯電話を持っていないと言うのだ。

 彼女からボールペンを借りて、僕はズボンのポケットから財布を抜いて、さっきカフェでコーヒーを注文した時に受け取ったレシートを引っ張り出し、裏に携帯の番号を走り書きして、彼女に差し出した。

「いつでも連絡して。」

 彼女は頷いて、ほっそりした手で思いのほか大事そうに、皺を作らないようにそっとそれをハンドバッグの内側のポケットにしまった。

「私は今実家にいるの。それで働きもしないで、毎日ここでこの本を読んでる。」

 ふっと笑った顔は自嘲気味にも、純粋に可笑しそうにも見える。どうして? そう聞きたかったけれど許されない気がしてやめた。

「僕は久しぶりにここに来たけど」

 座っていいものか少し迷いながら、結局、僕も桜の根元に腰をおろした。子どもの頃には気づかなかったけれど、芝生は人工芝で、乾ききっていた。

「ここは変わってないね、何も。」

「他は変わった?」

「すっかり違う街になってて戸惑ったよ。変わってないのは今のところ、ここと、駅前の桜並木くらいだ。」

 彼女は膝の上の本に目を落とした。小さな声で、そうね、と言った。

「あの桜並木はずっとあのままよ。この時期になると同じように咲いて舞うわ。」

 僕は何も聞けなかった。何しろ僕らがこんなに会話をしたのは初めてのことだったのだ。彼女はそんなことに頓着した様子は見せなかったけれど、当然僕には彼女に今まで何をしていたのかを、今まで何があったのかを、どんな思いをしてなぜ毎日ここへ来るようになったのかを、聞く権利は無いのだった。

「これからも毎日、ずっとここに来る?」

 かろうじて僕が思いついたのは平凡で無謀にも、これからの日々で彼女と話していくことだった。​僕は決して絵の中に踏み込むことはできないとわかっていながら、愚かにも彼女の、たぶん穴が空いたような心を埋めたいなどと考えたのだった。彼女は手の届かない絵の中から僕の目を見て、ええ当分、と言った。

 

 

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