4.

 

 花名さんが死んだ。

 それを私はようやく現実として理解した。

 電話があったのは昨日だった。夫は今朝、昼過ぎには戻ると言い残したきり、帰ってこない。外はもう暗かった。そしてつまり、この部屋も。

 今朝、ひとつしかない窓のカーテンを引き開けたのは夫だった。私がやらなくちゃいけないのに。予算には収まるけどちょっと狭すぎるんじゃないかな、と難色を示した彼を、日当たりが良いからとこの南向きのワンルームを新居に押し切ったのは私のほうだ。彼が私の、まぶしい朝陽に目を細めておはようと笑いかける顔が好きなことを知っていた。この部屋ならきっと毎朝私を愛しいと思ってくれる。毎日、たった一日も漏らさず、今日もこの部屋へ帰ってこようと思ってもらわなくちゃいけない。

 だけどもう帰ってこないかもしれない。真っ暗な部屋の床に座り込んだままそう思う。夫が出かけてから、私はずっとそうしていた。一緒に行くべきだったかもしれない。まさか、私がついて行って歓迎されることなんかあるわけないし、罵倒されて、殴られてめちゃくちゃにされて当然だけど、どうなったってそれでも無理やりにでも、どうしてもついて行くべきだったのかもしれない。あんなに愛したひとを失ってしまった夫を、一人で行かせるべきではなかった。だけど私は彼を見送ってしまった。いってらっしゃい、という一言だけかろうじて喉から絞り出して、ドアが閉まってから、私は立ち上がることも歩くこともできなかった。何も食べず、飲まず、電気もつけず、おそらく朝から身じろぎひとつしていない。ただ一日中座り込んでいた。何一つやるべきことなど思い浮かばなかった。そんなことあるわけない。花名さんが死んだのだ。彼はもう帰ってこないかもしれない。

 実際、彼が何故私と結婚したのか、今でもわからない。彼は花名さんを愛していた。間違いなく。きっとそれまでの彼の人生で出逢ってきた何よりも、愛していた。それは近くで見ていてはっきりわかった。胸は当然痛んだけれど、かなうはずがない。もし花名さんより先に彼に出逢っていたとしたって、私ではあんなにも彼に愛してもらうことなどできっこない。美しい人だった。花のように

 ――あの人、時々明日があってもなくても別にっていう顔するでしょう。わたし時々わからなくるのよ。書きかけの小説をどうするつもりなんだろうって。

 私が彼を好きだと察しながら、そんなことをさりげなく話してくれるような人だった。私を彼から遠ざけようと思えばできたはずなのにそうしなかった。花名さんと私の共通の話題なんか彼のことしかなかったのに、その彼は花名さんがすべてだったのに、彼が彼女をどれだけ愛しているか、そんな結論に収束するのが自然だったのに、それを丁寧に回避して会話を紡ぎ続けてくれた。違いますよ、と私は言いかけて言葉を飲み込んだ。彼女は私の目の前で手のひらに彼についてをひらいて、そっと渡してくれたのに、私は隠した。違いますよ、彼は今が幸せなんです。あなたがいるから今が一番幸せで、今日これっきりになったって胸がいっぱいなんですよ。ただそれだけのことですよ。

 なのに彼は彼女と離婚し、行為としては、戸籍上は、私を選んだ。私は夢のような幸福のさなかでいつだって不安だった。そして今それは確かな恐怖となって私をすっぽりと覆い包んでいる。酸素が入る隙間がない。息ができなくたってそれがなんだというのだろう。彼はもう帰ってこないかもしれない。

 恐怖と夜がずっしりと重なり合ってから何時間が過ぎたのだろう。目を閉じていていたのか、開いていたのか、もしかしたら眠っていたのかも。いっそそのほうが楽だ。花名さんは楽になったんだろうか。

 玄関のドアが開く音がした。閉める音、私に一歩一歩近づく足音。この音を毎晩私がどんなに待ちわびていたか、彼は知らない。

 そして私は閃くように、唐突に、現実的に、理解した。そう、花名さんは死んだ。

 背後で夫が電気のスイッチを押した。真空空間にそれはいやに響いた。暗闇に慣れた眼を光が容赦なく刺した。ああ、眩しい。彼を振り返る。笑顔を作ることは何よりも容易かった。そう。

 彼は私の手に入ったのだ。完全に。

「おかえりなさい。」

 

 

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