5.
どうして、僕は関与しなかったのか。
会うだけで、何も聞けず、何も知ることなく、彼女の人生に、どうして。
彼女の母親が飲み込む嗚咽を耳元に感じながら、僕はそんな意味のないことばかり考えていた。娘が永眠いたしました、大変お世話になりました。彼女の母親は彼女が部屋に放り出していたレシートの裏の走り書きを見て、僕の携帯電話に連絡をくれたのだった。レシートの端に彼女の字で僕の名前が書き加えられていたのだという。あの子は最近楽しそうで、あなたのことを何度か話してくれました。そんなことはこの一年なかったから、嬉しかったんです。結局こんな結果になってしまったけれど、でも、不幸せなままではなかったから、感謝しています。それをどうしても伝えたくて…
そんな馬鹿な。僕は喉元まで出かかった言葉をすんでのところで押し戻した。娘を亡くしたばかりの人にわざわざぶつけるようなことではない。”彼女は不幸せだった”、僕に出逢ったって、なお。
どうして気づかなかったのか。それとも気づいていたのか。だって、僕は彼女の選択にどこかで納得してしまっている。予感がなかったと言い切れるのか。止めるべきだったのに。少なくとも傍にいたことだけは確かだったのに。
電話を切った後、僕はもう歩けなくなっていた。桜の花びらが幾枚も舞い降りて眩暈がした。
「あの桜並木はずっとあのままよ。この時期になると同じように咲いて舞うわ。」
僕は今、彼女がそう言った桜並木にいたのだった。空は透き通るようで、薄い桜の花びらがくっきりと映えていた。終わったわ。彼女の声を思い出した。本を読む横顔を。桜の下で眠る彼女を。あの一枚の絵を。
終わったわ。
僕は許されていなかった。彼女から、関与する権利を与えられていなかった。僕が勝手にそう思っていた。本当のことはもうわからない。彼女が僕を待っていたか、どうかなど。
いつまでも眩暈がする。それでも僕は走り出した。まっすぐには走れていなかったけれど、そんなことはどうでもいい。彼女がいるはずのところへ、もうこれ以上遅くなることだけが耐え難いことだ。
よろめきながらいつもの扉の前に辿り着いた。息を整えることができないまま、身体ごと寄りかかるようにして扉を押し開けた。
いつもと同じ風の音がした。桜は変わりなく咲いていて、芝生に散って、一層幻想的な風景になっていた。だからってここは異空間でもなんでもない。僕は勘違いをしていた。ここだって現実だった。彼女はもういない。
彼女が居た場所を見つめながら僕は泣いた。