「花名」
呟いた。まさかこんなに早くまた会うことになるとは思わなかった。いや、花名に会わない期間は確かに長いものだった。今それを知った。ああ、長かった。そう思った。声が聞きたかった。花名、話をしないか。僕はあの時、桜吹雪にまぎれて立つ君と君の涙の、あまりの美しさに息を飲んだんだ。花名。
「ごめん…」
白い頬に、僕の所有物のように数えきれないほど触れた頬に、あの時の桜を添えた。小刻みに震えでもしていたら悲しみの証のようになったかもしれないのに、僕の指先は感覚を失い、無感動の化身のように、不自然に土色で、骨ばって細く、ぴくりともせずに作業を終え、桜を手放してだらりと垂れた。
後ろから人が入ってくる気配がした。男の声で、この度は、と言った。
ここから立ち去らなければ。僕はようやくそう思い至った。もちろん僕は君のそばにいるべき人間ではないだろう。まして君を見て涙を流す資格なんてないのだろう。
動かない足をむりやり畳から引き剥がして、のろのろと歩き出す。花名の母親は花名とよく似た静かな笑みを浮かべて僕を見た。
「…僕はこれで。」
どうにかそれだけ言った。花名の母親は深々をと礼をした。最後まで僕を責めることはなかった。まるで女神のように。僕はそんなことを思う。あるいは花名のように。
後から入ってきた男は正座をして視線を落とし、じっと順番を待っていた。花名と同じくらいの歳だろうか。学生時代の友人かもしれない。花名は、私あまり友達がいなかったのよと笑っていたが、花名を好いていた人は男にしろ女にしろ少ないはずはなかった。もしかしたら彼も花名に恋をした、僕と同じような男かもしれなかった。たたんだ脚のかたわらに一冊の本と、その上に一本の桜の枝を置いていた――本と、桜?
僕は思わず目を見開いて、表紙の色彩を見れば一目でわかるのにわざわざタイトルを確認して、それから一瞬完全に足を止めてしまう。
その本は、僕が花名と別れてから出版した小説だった。まだ別れる前から執筆していた。どんなはなし? 花名の声が耳の奥に蘇った。あの時、僕はなんと答えたのだっけ。
花名はそれを読んだのか。だから彼は今これを持っているのか。唐突に彼に聞きたいことが胸を駆け巡った。花名はそれを読んで、それとも読まずに死んだのか。花名はあなたに何を話したのか。何を見て、何を愛し――あなたは花名を愛したのか。だから僕と同じように桜を折ってきたのか。
「何か…?」
怪訝そうに見上げられてはっと我に返った。僕が聞いてどうする。この期に及んで勝手な欲望で彼女や彼女の周囲をかき乱すようなことだけは、せめてそれだけはしてはならなかった。
僕は首を振り、ただ会釈を交わし、立ち上がった彼とすれ違った。
外に出ると、空は透き通るようで、薄い桜の花びらがくっきりと映えていた。