「すみません、不躾に。あの、でも。」
青年はそこまで言ってようやく思い出して差し出しっぱなしの私の手から本を受け取って、もう一度すみません、と言った。私は小さく首を振るくらいしかできなかった。
「仕事、終わるの何時ですか。」
唐突にそう訊かれた。
「…お客様…」
「待ってます。何時ですか。」
お客さんからのお誘いなんて断るべきだ。わざわざ確認しなくたってそんなことは常識だ。
けれどふいに、私はもうこれ以上一人ではいられない、と思い知った。彼の真っ直ぐな瞳を見る。濁り気のない両眼をしていた。
「…五時です。」
「五時ですね。」
彼の顔から初めて笑みが溢れた。幾度となくその慈しみに触れたことがあるような気がしてしまう優しい笑顔だった。
身を翻して本棚の向こうへ消えていく彼を見送りながら、とてもふいに、泣きそうになった。
春が終わりかけている。
彼は本当に待っていた。
薄手のグレーのコートのポケットに片手を入れて、片手で私が手渡した本を持って読みながら、書店の出入り口の目の前のガードレールに腰かけていた。そんなことをしている人はいないのに雑踏から浮いているかというと、そうとも言えないような、ふんわりと街に馴染んでいるような気もする出で立ちの人だった。このまま引き返したとしても、もちろん彼の世界は揺らぐことなどないだろう。裏口から正面に回ってきたのにそんなふうに声をかけようか迷っていると、はかったように顔を上げて私を見つけた。
「お疲れ様。」
「あの…ずっとここで待ってたんですか? だってもう…」
三時間もここにいたことになる。分厚い本がそれ相応に読み進んでいた。確かに連絡先の交換なんてしていなかったけれど。
「どうして。」
「お腹空きませんか。」
彼は今度はやんわりと私を遮った。ぽん、と片手で本を閉じ、軽い身のこなしで立ち上がる。
「もう何日も食べていないような顔をしてる。」
そして私の返事を待たずにのんびりと歩き出した。