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6.

 

 彼女の家は昔ながらの古い、簡素な佇まいの日本家屋だった。開け放してある玄関で靴を脱ぎ、わずかに軋む床板を踏んで進む。清潔な廊下にまで煙の匂いがひめやかに満ちていた。

 その時弔問客は一人だけだった。僕と同じような年恰好の男で、膝をついて棺のなかをじっと見つめていた。棺のかたわらには黒い着物の女性が白いハンカチを口元に当てていた。部屋に入った僕へ泣きはらした顔を向けて、それから深々と頭を下げた。ひとめで母親だとわかった。伏せた目元は彼女にとてもよく似ていた。

 僕も正座をし、畳の上に図書館の中庭で手折ってきた、いくつもの花を咲かせた桜の木の枝と本を置いて、お辞儀をした。このたびは、と言って、それ以上言うことがなかった。

「…僕はこれで。」

 聞き取れないほど小さなかすれた声で、棺から離れた男が母親にそう言った。友人か、恋人か。彼女に焦がれる男は少なくないだろうと僕はずっとそう思い込んでいたけれど、それなら彼女はどうして携帯電話も持たず、あんなにも独りだったのか、今更その矛盾に気がついた。僕はどこまでも浅はかだ。

 僕の横を通り過ぎようとして、男はふと足を止めた。

「何か…?」

 知り合いでもないはずだ。顔を上げると、彼は僕を見ていたのではなくて、僕が置いていた桜と本に目を留めていたのだった。桜の枝を折る行為はあまり褒められたことではないけれど、僕にとって彼女にこれほど相応しい花はなかった。本の夢にいる、と彼女は言った。こういうことなのかな、と僕は彼女の見る夢の中にいるような錯覚を覚えながら、丁寧に一本、震える指で枝先を折ってきたのだった。そして彼女がずっと読み続けていた本を――迷ったけれど、彼女が愛した本だということだけは僕にもわかったから、ここへ来る前に本屋へ寄って買ってきたのだ。きっと彼女は最後までこの本を自分のものにしなかっただろうから

 目が合うと、彼は軽く首を振って、会釈をした。僕も頭を下げた。それだけだった。一言でも何か言えば泣き出してしまいそうな顔だった

 彼が去って、僕は棺に向かった。

 彼女の顔はきれいに化粧が施されていて、穏やかだった。桜の下で眠っていた時となんら変わりない。そしてその手前の頬の横に、ちょうど僕が今手にしているのと同じような、桜の枝が置かれていた。ああ、誰かも僕と同じように彼女を見ていたのだな、そう思って、奥の頬に、僕は本と桜を添えた。

 彼女は綺麗だった。僕のことなんかきっと忘れて眠っている。まるで絵のようだ。最後まで僕はそう思った。最後まで、彼女は僕にそう思わせた。

​ そうやって、彼女は絵のように眠る。

 

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