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2.

 

 花名の母親は僕を責めたりしなかった。

 僕はもちろん、花名と幸せな三年間を過ごした小さなマンションの一室を彼女に残して出て行ったのだが、花名は母親に呼び寄せられて、僕と別れて間もなく実家に戻っていた。母親も娘の他に身寄りがなく、寂しかったのだろう。親戚づきあいもなく、母親と二人だけの生活を営んで育った花名には、いつも穏やかな孤独が、空気を孕んで薄膜のように纏っていた。陰っているようにも見えたし、微かに発光しているようにも見えた。僕はどうしようもなく魅了されてしまった。

 

 勝手な人ね。一年前、花名はそれだけ言って離婚届にサインした。本当にその通りだった。僕が勝手に花名を見つけて追いかけて、好きだと訴え、愛していると囁き、守ると誓ったのに、たった三年で熱に浮かされたように今の妻に恋をして、別れを告げたのだ。一方的に。

 けれど花名の母親は僕を責めなかった。一年前も、そして今も。

「会ってやってください。」

 あなたのせいで私のたった一人の娘はぼろぼろになって死んだのよと、詰られる覚悟をして、かつて娘さんを下さいと土下座した部屋に入った僕に、あろうことか頭を下げた。僕は知っていたはずだった。花名を育てた人がそういう人であることを。

 初めて花名を見つけた時、そこは満開の桜並木だった。僕は向かいの歩道で、行き交う車越しに、花びらを含んで形をあらわした風にさらわれそうな彼女の腕を、掴んで、引き留めるにはどうしたらいいのかやきもきして、ずっと忘れられなかった。あの桜並木の桜の枝を、来る途中に一本折ってきていた。それを持って、一年ぶりに花名に会った。

 僕が愛した花名は僕が愛したころと何も変わっていなかった。今すぐに目をひらいて、薄く笑って、勝手な人ね、と言うかもしれない。あの子とはうまくいってる? あの向日葵みたいな笑顔の子と。そう言うかもしれない。僕はなぜ今こうして花名の死に顔を見ているのだろう。僕はなぜ、花名のもとを離れたのだろう。

 僕はなぜこんなにも愚かなのだろう。それを受け入れられる幸せを与えられておいて、なぜ。

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