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5.

  翌日の朝、藤沢くんは生きてちゃんとホームルームの前に教室に入ってきた。教室は一瞬の静寂の後、何事もなかったかのように元通りざわざわとし始めた。私は誰にも何も言っていない。これはみんなの優しさで、総意なのだ。何もなかったことにする、いつも通りにする。彼に構わないで、彼の居場所を黙って空ける。

「おはよう!」

 私は友達の輪から抜けて、席に着こうとしていた藤沢くんに駆け寄った。

「おはよう。」

 藤沢くんは顔を上げて座りながら言った。教室に足を踏み入れた瞬間に、ほんの少しだけ神経質に寄った眉は、既にもういつも通りの穏やかな水平になっていた。

「ほっといていいよ。」

 クラス中が見て見ぬふりをしているのを、私でも感じる。いつも通りのざわざわを続ける努力をしている。確かに私が近づいたほうが皆気になるみたいだ、と私は考える、それでもいたほうがいいだろうか、ほっといたほうがいいだろうか、と、藤沢くんにとって。

「ほっといてほしい?」

 わからなかったので聞いた。藤沢くんは間髪入れずに、うん、と頷いた。わかった、と言って、私は友達のところへ戻ろうとした。

「あ、そういえば、今日の放課後…」

 言いながら振り返ると藤沢くんは椅子を引いて立ち上がり、机と机の間に一歩踏み出しているところだった。

 凄まじい勢いで全身の血の気が退いた。壁にぶつかって跳ね返るスーパーボールのように戻って、私は彼の両腕を真正面から掴んだ。

「な、何?」

 あまりの勢いに藤沢くんはたじろぎ、後ずさり、目を見開いてまともに私を見つめた。初めて目が合ったという気がした。私はどうしようもない予感とも不安ともつかぬ思いにかられて聞いてしまう。

どっちに行くの?」

 聞いてしまう。廊下に出るドアがある右か、――窓の左か。

 藤沢くんは私が恐れたことが何か察したようだった。ああ、と頷いてから、私に封じられた腕の代わりに顎でドアを示した。

「あっち。」

 私はほっとして手を下した。はあ、と深い息を吐く。彼はあっけにとられた顔をほころばせてにっこりと笑った。そしてふと私の視界から消えた。左側に。

 あ、と思ったときにはもう遅かった。彼はかろやかな足取りであの窓に向かい、木登りをする子どものように身軽に、窓枠にとん、と足をかけて、やはり、何の気なしに身を投げた。

 親を呼ぶ雛鳥の鳴き声のような、短く鋭い悲鳴が私の喉からほとばしった。

 何もかもあの時と同じだった。信じられないほどまったく。私は嘘ではないかと思う、幻覚ではないかと、記憶が蘇っただけではないかと、白昼夢を見ているのではないかと思う、あまりの混濁に何が現実なのかわからなくなる。だってそんなことがあるものか――誰がそんなことできるものか、一度そうしたのと同じように死にいけるなんて?

 あの日よりもずっと早く、もしかしたら私と同じくらいに、クラス中の皆も敏感に何が起きたのかを瞬時に悟る。先生、と誰かが叫ぶ。どよめき、悲鳴。私はなぜかその中の誰よりも先に彼の元へ辿り着かなければと思う。悪夢だと信じるよりも先に、行かなければと思う。

 彼は別に私など待っていないのに。

 私は一人、徒競走でピストルを鳴らされたように強制的な条件反射で教室を飛び出した。

 藤沢くんは勿論あの時と同じ場所に落ちて、おそらく同じ場所から血を流して、同じように倒れていた。私は、だから同じように彼の肩に触れてしまう。けれど途中で信じられなくなって、ふいに両手で両肩を掴んで揺さぶった。もしかしたら冗談だよと言って起き上がるような気がして。藤沢くん、と。やはり私にはわけがわからない、なんで、なんでなんでなんでなんで、私は何度も肩を揺さぶる。

「なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで、ねえ藤沢くん藤沢くん藤沢くんだめだよ、だめだよだめだよだめだよ、ねえだめだよ、なんでなんでなんでなんでなんで?!」

​ イチョウからはとっくに葉が失せている、血には、ああなんということだ、血には限りなく穏やかな青空と雲が映っている。それは私が確認できる最後の光景となる、私はもう少しで自分の気が狂うとわかっている、最後の螺子をこの手で掴み続けていられないことがわかっている。ああああああああせめてせめてせめてその前に目を開けてよ目を目を目をお願いだから藤沢くん藤沢くん藤沢くん藤沢くん藤沢くん、遠くに聞こえる獣の声のような絶叫はきっと私のものなのだ、私はもうそれを統制することが不可能になっている、何故なら私の螺子は遂に私を見捨てて跡形もなく何処かへ消えた、私はそしてどうしようもなく私こそ真に死ぬ。

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